中囿 義光 Yoshimitsu NAKASONO
考え続けた先に立ち上がるもの
ものを作る前に、まず考える。なぜそれを作るのか。なぜその形なのか。なぜ、いまそれを世に出すのか。そうした問いを手放さずにいることが、この中囿 義光(なかその よしみつ)さんにとっての制作といえるのかもしれません。流行や表層的な新しさに身を委ねるのではなく、存在の奥にある本質に目を向ける。感覚だけで押し切るのでもなく、理屈だけで閉じるのでもない。その両方を振り子のように行き来するなかで、作品が少しずつ輪郭を帯びていきます。
インタビューで印象的だったのは、どの言葉にも立ち止まって考えた痕跡があることでした。作品のこと、マーケットのこと、自分自身の立ち位置のこと。そのひとつひとつを簡単には片づけず、時間をかけて見つめている。その静かな思考の積み重ねが、いまの作風や在り方につながっているように感じられました。

はじめから志していたわけではない
名古屋造形大学大学院卒業後、2009年より岐阜県多治見市にあるstudio MAVOで作陶を始めた中囿さん。陶芸の道に入ったきっかけも、明確な決意から始まったものではなかったといいます。「学生時代、身近な出会いや環境の流れのなかで、気づけば仕事として成り立ち始めていました。自ら強く『この道に進もう」』と定めたというより、作り続けるうちに、自然と現在地へたどり着いた感覚に近いのかもしれません」と、経緯を振り返ります。
だからこそ「自分にはいわゆる修業時代の苦労がない」とも話します。師匠のもとで長く学び、下積みを経て独立するという成り立ちとは異なるからこそ、自分の足場を確かめ続ける必要がありました。自分はこの仕事に本当に向いているのか、きちんと前に進めているのか。好きなことと得意なこと、やりたいこととできること。その迷うプロセスが背骨のように作品を支え、奥行きを与えています。

いいものを作るだけでは、届かない
「いいものを作っていれば売れる、というわけではないんです」
その言葉には、ものづくりを現実のなかで捉える冷静さがありました。どれほど誠実に作っていても、それだけで届くとは限らない。料理が美味しいだけで売れるわけではないのと同じように、器や作品にもまた、伝え方にも工夫が必要なのだといいます。だからこそ必要なのは、表層的に見た目を整えることではなく、自分の中にある考えをどのように差し出すか、そのアプローチを見極めること。「作品の背景にある思考を大切にしつつも、受け手との距離感を推し量り、作品と周辺の環境を作っていくことだ」と、プロフェッショナルな姿勢は揺るぎません。
作品に込められたコンセプトも同様で、ただそれらを説明し尽くせば良いというわけではありません。見た人が素直に可愛いと思えること、暮らしのなかに自然に置けることを大切にしながら、その奥に“秘めたる狙い”を静かに忍ばせておく。その奥深さにも、中囿さんらしい美意識が感じられます。

思考する癖が、制作の核になる
物事を考え続ける癖について「勉強をしなかったから、与えられた答えをそのまま受け取るのではなく、自分で考える習慣がついた」といいます。ものを見ると、まず「なぜだろう」と考える。形だけを追うのではなく、その成り立ちや構造、発想の起点に意識が向くのです。
一方で、「根拠はないけれど」と前置きをしたうえで、最近気になっているものとして、日本の祭りや縁日、参道の空気感を挙げていました。ありあわせのもので構成されているように見えながら、なぜか均衡があり、なぜか格好いい。そこにあるのは、整いすぎていない美しさです。洗練と雑味が紙一重で同居しているような、あの独特の感覚に、強く惹かれるといいます。説明できないまま惹かれていること自体が、いまの制作にとって大切な予感なのかもしれません。

わかりすぎない場所に、自分を置く
そして「長く作り続けることも才能だ」としながらも、続ければ続けるほど技術や価値観は固まる一方で、自由さを少しずつ削っていくこともあるのでしょう。だからこそ、技術や知識に頼り過ぎず、あえて少し外れた場所から遊んでみる。慣れたやり方に落ち着く前に、いまの自分にとって未知の余白を残しておくことを大切にしています。その姿勢は、作品を更新し続けるための、静かな抵抗のようにも感じました。
話を聞きながら感じたのは、中囿さんにとって制作とは、手を動かすことと同じくらい、考え続けることでもあるということでした。トレンドを追うのではなく、ただ頑なになるのでもなく、その間にある自分なりの位置を探り続ける。その静かな往復が、作品に独特の緊張と余白を与えているように思います。そうした問いの積み重ねの先で、ようやくひとつのかたちが立ち上がる。
中囿さんの作品には、とっつきやすいポップさとは裏腹に、考え続ける人だけが持つ静かな強さが宿っているのです。
