矢竹 純 Jun YATAKE

矢竹 純 Jun YATAKE

By IIDAKENTARO

時間をかけるということ
金属を叩いて器をかたちづくる「鍛金(たんきん)」。広島の山あいにある工房で、矢竹純さんは一枚の銅板から、カップやコーヒーケトルなどさまざまな作品を打ち出しています。話を伺って心に残ったのは、「時間がかかる」ことと「時間をかける」ことの違いでした。
高い技術を持ちながら、なお手間を惜しまない。気に入らなければ世に出さず、やり直す。そのこだわりと選択の積み重ねが、一つひとつの器に確かな説得力を与えています。
東京で育ち、広島の大学で金属工芸を学ぶ。東京都立工芸高校での教職を経て、新潟・燕の玉川堂で鎚起銅器の職人として勤務。コロナ禍のさなかに独立し、結婚を機に広島へ移住しました。現在は広島の山間部に構えた工房で制作を続けながら、大学で学生の指導にも携わっています。

 


先生になるはずだった
広島の大学を卒業した矢竹さんが最初に選んだのは、美術教師の道でした。母校である工芸高校の教壇に立ち、授業そのものは楽しかったといいます。けれど、生活指導や保護者への対応まで含めた教師という仕事には、どうしても向いていないと感じたそうです。
次の道を探していたとき目に留まったのが、燕の鎚起銅器の老舗・玉川堂が青山に店を構えるという新聞記事と、そこに添えられた職人募集でした。大学でずっと金属に触れてきたこともあり、続けられるならここでいい、という気持ちで応募したところ、思いがけず採用が決まります。「これだけをやっていけるなら、そのほうが幸せなんじゃないか」。そう考えて教職を離れ、新潟へ移りました。
もっとも、大学で学んだことは仕事の現場ではほとんど通用しなかったといいます。最初は先輩が打った器を磨き、仕上げるだけで、金鎚を握らせてもらえない日々。丁稚のようなところから一つずつ覚え、職人としての本当の成長は、働き始めてから始まったのだと振り返ります。

 


広島で求められた銅の器
玉川堂で年数を重ねたのち、コロナ禍のさなかに独立。結婚を機に広島へ移りました。金属を叩く音が出るため、隣家と距離のとれる場所を探し、知人の紹介で山あいの古い家に行き着きます。若い世代が広島市内や東京へ出ていき空き家が増えた地域で、周囲は新しい住人を快く迎えてくれたそうです。昭和の家の壁を塗り直し、工房として使い始めて一年ほどになります。
広島には、銅の器が求められてきた理由があります。千利休や古田織部に茶を学んだ武将茶人・上田宗箇(うえだ そうこ)が浅野家とともに広島へ入り、武家の茶として興した上田宗箇流は、いまも当地で受け継がれています。その茶の湯では湧き水を用い、銅の水差しなどの道具が使われてきました。それを支えたのが、江戸時代から続く「広島銅蟲(どうちゅう)」です。聞けば、燕の鎚起銅器(ついきどうき)とは呼び名が違うだけで、手で打ち出して器をつくる点は同じだといいます。

 


途絶えかけた文化と道具の繋がり
ところが、その銅蟲を代々担ってきた工房は後継ぎがおらず、近年廃業しました。銅のやかんや建水を使いたいという上田宗箇流の先生方が諦めかけていたところへ、矢竹さんが広島へ越してきて、テレビなどで紹介されたことが縁となり、注文が届くようになります。取材の日も、工房の片隅にはビニールをかぶせた茶席用のやかんと、つくりかけの建水が置かれていました。
道具は、それを使う文化とともにしか生き残れません。音楽が廃れればギターも廃れるように、茶の湯という使い手の側が細れば、どれほど手を尽くした器も行き場を失う。広島銅蟲の衰退は大きなニュースになることもなく、静かに進んでいました。その隙間に一人の作り手の仕事がはまったことは、偶然でありながらどこか必然のようにも思えます。

 


誰の作品も見ない
矢竹さんがものづくりで何より大切にしているのは、オリジナリティです。そのために、同じジャンルの作品はあえて見ないようにしているといいます。現代アートのように遠い分野なら構わない。けれど金属の器は、見ればどうしても引っ張られてしまう。だから、自分の内側から生まれたかたちしかつくらないと決めています。
もちろん、技術のルーツは玉川堂で学んだ鎚起銅器にあります。それでも、かつて勤めた工房と同じデザインのものは決してつくらない。基礎は受け継ぎながら、意匠では意識して距離をとる。その線の引き方に、職人から作家へと歩みを移した人の矜持がうかがえます。

 


使いやすさが一番、美しさは二番
では、良い器とは何か。答えは「時間をかけたもの」でした。満足できなければ世に出さず、気が済むまでやり直す。それがお客様に伝わるかはわからない。けれど、そこだけは裏切りたくないのだといいます。海外製の銅器と並べれば、仕上げの差は一目瞭然だそうです。手間を惜しまない作り込みは見た目だけでなく、耐久性にもそのまま表れます。
もうひとつの大前提は、使いやすさです。自分がやっているのは美術というより工芸なのだ、とも話します。アートに寄りすぎれば、コップひとつでも使いにくいものが生まれてしまう。お湯が注ぎやすいかといった機能がまずあって、美しさはその次に置かれます。
とはいえ、一日中使い続ける道具はありません。使っていない時間も暮らしの中に置かれ、眺めているだけで気持ちが整う。酒を注ぎたくなる酒器が良い酒器であるように、使う気にさせる道具こそが良い道具なのだと、話しながら互いに頷き合いました。

 


銅の色をつくる
素材としての銅そのものに、良し悪しの差はほとんどないといいます。かつては精錬技術が未熟で不純物も混じりましたが、いまは純度99.99%。差が出るのは、それをどう扱うかです。銅は加工しやすく、機能性にも優れ、そして多彩な色を出せる。錆びやすく色が変わりやすいという弱点を逆手にとり、赤や青、黄色へと発色させる技術が古くから受け継がれてきました。
矢竹さんの色彩の核にあるのは、青と白の二色です。青は燕三条で修業しなければ身につかない技術。まず温泉の素で銅を黒く変色させ、緑青と硫酸銅を溶かした液で煮込むと、黒が紫へ、やがて青へと移っていきます。浸ける時間ひとつで紫がかったり緑寄りになったりと、思いどおりに制御するのは容易ではありません。
白は、錫(すず)を手で焼き付ける「錫引き」によるものです。熱した銅に融点の低い錫をのせて広げていくため、機械メッキより厚く、使い込んでも剥がれにくい。器の内側にも錫を引きます。かつて保健所が緑青を有毒とみなし、内側の錫引きを指導した名残だそうですが、実際に毒性はないとのこと。それでも内側を錫にすれば変色を防げ、注いだ飲み物の色もそのまま美しく見えるといいます。

 


味噌から生まれる黄金色
さらに驚かされたのが、味噌の話です。錫を引いた上に味噌を塗ってバーナーで焼くと、錫と銅が表面で合金化し、味噌なしでは出せない黄金色になる。理由は本人にもわからず、塩分の作用かと塩水で試しても再現できなかったそうです。しかも、粒の残る上等な味噌より、ペースト状の安い味噌のほうがむらなく仕上がる。大学で色の研究もしてきたその手元には、そうして積み上げた色見本のマトリックスが並んでいます。
コロナ禍で仕事が途絶えた時期には、その色を小さなピースに分け、遠目には一枚の絵に見えるモザイクにも挑みました。金と赤のように、工程上ひとつの器では同居できない色の組み合わせも、ピースを分ければ並べられる。誰かに教わることも、ネットで調べることもできない、きわめて身体的な知の蓄積です。

 


道具をつくるところから
作業場には、丸太の木台に差し込まれた鉄の「当て金」が並びます。金鎚と対になるこの道具のほうがむしろ重要で、その先端の形に沿って銅板が曲がっていく。木台の穴の配置は職人ごとに異なり、この工房の木台は、元自衛官で木工を趣味とする義父がこしらえたものだそうです。
当て金は市販品がほとんどなく、あっても結局は自分で削り直す必要があります。そこで鉄の塊を真っ赤に熱して曲げ、グラインダーでひたすら削って自作してきました。大学に戻った最初の一年は、ほとんどこれだけに費やしたといいます。人と同じ当て金では、かたちに個性が出せず、お客様に求められた形にも応えられない。オリジナリティは、道具の段階から始まっているのです。
制作は、銅板から円を切り出すところから始まります。当て金に当てて叩き、隙間を潰すようにして少しずつ深くしていく。叩くと硬くなるため、そのたびに火で焼きなまして柔らかく戻し、また叩く。これを十数回繰り返して、平らな円盤が立体の器へと立ち上がります。途中で当て金を替えれば、同じ一枚の銅板から異なるかたちが枝分かれしていきます。
口をすぼめる工程では、余った材料がだぶついて重なれば亀裂が入る。一度に絞りすぎれば割れ、浅すぎればかたちは変わらない。そのぎりぎりを攻めることこそが技術であり、「時間をかける」ということの中身なのだと腑に落ちました。

 


山の上で、湯を沸かす
矢竹さんの器は、茶室のためだけのものではありません。シェラカップやアイスコーヒー用のカップのように、いまの暮らしの中に入り込んでいく道具もつくっています。なかでも、山の中で自分のコーヒーケトルを使う時間は最高なのだそうです。夏は暑すぎ、春と秋は短い。そんな季節の隙間を縫って登った先で湯を沸かし、コーヒーを淹れる。
途絶えかけた土地の茶の湯を支えながら、同時に、山の上の一杯にも寄り添う。矢竹さんにとって道具とは、飾られて完結するものではなく、「使いたい」と思わせることで暮らしを豊かにするものなのだと思います。手間を惜しまず打ち出された銅の肌には、そのための時間が、静かに折り重なっていました。